北方領土返還を願う千島の砦

日本の領土・北方領土

北方領土のあらまし

① 北方領土の位置と面積

わが国が一日も早く返ることを願い、ロシアに返還を要求している北方領土とは、北海道本島に近い歯舞群島(はぼまいぐんとう)・色丹島(しこたんとう)・国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)の4つの島のことです。

歯舞群島は、根室半島の納沙布岬からわずか7キロメートル隔てた水晶島(すいしょうとう)を始めとして、それより東北に延びている秋勇留島(あきゆりとう)・勇留島(ゆりとう)・志発島(しぼつとう)及び多楽島(たらくとう)の島々のことで、色丹島はさらにその東北にある島です。歯舞群島・色丹島は、大昔根室半島と地続きでしたが、土地の陥没などによって、離れ島になったといわれています。

国後島は北海道本島の東北の海上に連なっている北方領土の南端に位置し、根室半島、野付半島(のつけはんとう)、知床半島に囲まれています。

択捉島は国後島の東北の端から22.5キロメートル隔てた地点より細長く延び、北方領土の中で一番大きな島です。

その先に、得撫島(うるっぷとう)から占守島(しゅむしゅとう)まで、大小およそ20あまりの列島(千島列島=クリル諸島)が、カムチャッカ半島まで海洋上に弓なりに連なっています。

北方領土の中で、面積が最も広いのは択捉島の3,184平方キロメートル、それに次ぐのが国後島の約1,498平方キロメートル、色丹島約253平方キロメートル、歯舞群島の志発島59平方キロメートルの順で、北方領土の総面積は5,036平方キロメートルで、この面積より小さい都府県が19もあります。

●こんなに近い北方領土

貝殻島3.7km
水晶島7km
国後島16km
色丹島73.3km
択捉島144.5km

沖縄本島510km
奄美大島290km
八丈島180km
三宅島80km
佐渡島31km
伊豆大島23km
小豆島15km
淡路島4km
(※本土(北海道、本州、四国、九州)から各島への最短距離の比較)

●こんなに大きい北方領土
歯舞群島99.9k㎡礼文島(81k㎡)よりやや広く、小笠原諸島(104k㎡)に近い。
色丹島253.3k㎡徳之島(248k㎡)より広い。
国後島1498.8k㎡沖縄本島(1208k㎡)より広く、佐渡島(854k㎡)の約2倍。
択捉島3184k㎡鳥取県(3507k㎡)に近い面積。

②北方領土の自然
千島列島の西側はオホーツク海に、東側は太平洋に面しています。この海域は、暖流の日本海流(黒潮)と寒流の千島海流(親潮)が接しているところなので、季節によって、気候が大きな影響を受けます。
気温は海洋の影響を受けるので、冬でも寒さはそう厳しくありません。冬の平均気温は、零下5度か6度位で、これは根室とほぼ同じ位です。しかし、夏の気温が月平均10度以上にのぼるのは、6月から10月までの5ヵ月間で、8月でさえ、平均16度位です。これは、海霧(ガス)のため日照時間が少なく、そのうえ、海から冷たい風が吹いてくるからです。
海霧は、冬はほとんどなく、3月頃から発生して、6月から8月にかけて最も多くなります。
年間を通じて風の日が多く、特に、冬の間は雪をつけた風が何日も続くことがあり、ひと月のうち、暴風の日が20日位もあります。しかし、雪の積もる量は平均0.5メートルぐらいで、あまり多くはありません。
降水量は、冬は、オホーツク海側で100ミリメートル、太平洋側では80ミリメートルぐらいです。これは、季節風の影響によるものです。
このように、厳しい気候ですが、夏はわりあい穏やかです。
歯舞群島と色丹島の気候は、国後島や択捉島とほとんど変わりがありません。得撫島から北の島々は、国後島や択捉島に比べて、気候がやや厳しい位です。
千島列島と北方領土における動物・植物の分布の状態を見ると、北方領土の島々は、北海道の動植物の分布と全く同じで、得撫島より北の千島列島のものとは違いがあります。宮部金吾博士は、千島列島と北方領土の植物分布の状態を調べ、得撫島より北の島々と択捉島より南の島々に分布する植物の違いを認め、択捉海峡に線を引いてその違いを表わしています。これが「宮部ライン」です。
また、動物の分布についても、北海道大学の八田教授の研究によって、宗谷海峡を境としてラインを引くことが学界で認められるようになりました。これが「八田ライン」です。この「八田ライン」は植物分布上の「宮部ライン」とほとんど同じであることが認められています。
北海道でおなじみの、エゾマツ、トドマツが択捉島にまで分布していますが、得撫島より北にはないこと、動物も北海道と国後島とは全く同じ状態にあり、一部は択捉島にも及んでいて、大体において北海道と同じです。
「北方領土」の近海は、親潮(千島海流)と、黒潮(日本海流)がぶつかりあい、世界の3大漁場のひとつに数えられる魚の宝庫です。サケ、マス、ニシン、カニ、エビ、貝など寒流系の魚介類が多くすんでいます。また、これらの魚介類をえさとする牛よりも大きなトドを始め、オットセイ、アザラシなどの海のけものたちもたくさんいます。
島々には、北海道でも多く見られるキタキツネ、ヒグマ、クロテン、エゾライチョウ、クマゲラなどのけものや鳥が住んでいますが、カムチャッカ半島で繁殖した渡り鳥の通り道にあたるため、オジロワシ、エトピリカ、ウトウなどの珍しい鳥も見ることができます。

③人びとの生活
島の住民のほとんどは、小規模な漁業を営んでいました。これらの人々の多くは、初めは漁業経営者に雇われてきたものですが、やがて独立して、郷里から家族を呼び寄せ住みつくようになりました。その頃の住宅は、ほとんど木造、柾(まさ)屋根の平屋造りで小さなものでした。
また、島での生活は学校や倉庫などを会場にした巡回映画や学芸会・運動会などが喜ばれました。ラジオやレコードなどは、娯楽として大事なものでした。年に一度のお祭りは、村じゅうをあげて、大変賑やかに行なわれました。
生活に必要な物の大部分は、船で運ばれていましたから、暴風や流氷の時期には航海ができなくなり、大変困りました。それで食糧品などは、翌年の春までの分を秋のうちに買い入れておきました。新聞や郵便物などは、長い間途絶えることがしばしばありました。国後島や択捉島には、温泉が湧いているところもありましたが、交通が不便でしたから、近くの人々が利用する位のものでした。
いちばん困ったことは、急病人やけが人が出たときです。医者や病院などは極めて少なく、設備も整っていませんでした。そのうえ、交通が不便なために、急病人の手当が間に合わないことも多くありました。重い病人は、根室や函館に送られました。

④北方領土の産業
●水産業
島のまわりには、魚の種類がきわめて多く、世界3大漁場の一つとして知られています。とれるものは、タラ・マス・ホタテ貝・コンブなどでした。
歯舞群島ではおもにコンブ漁、色丹・国後・択捉島ではサケマス漁が盛んで、大きな会社が中心となって、行なっていました。
●林業
林業は、水産業についで重要な産業でした。
山林のほとんどは国有林で、北海道と同じ種類の樹木が、うっそうと繁っていました。
これらの木材の大部分は原木のまま、根室や函館に送られていました一部は島での生活のため魚を入れる箱などの原料となりました。
●農・畜産・鉱業
平地が少ないため農業はあまり盛んではありませんでした。日常生活に必要な野菜類が栽培されている程度でした。
馬がかわれ乗用および輸送用として利用されていました。また、牛や狐も飼われていました。
千島火山帯に属する択捉島・国後島には金・銀・銅を始め各種の鉱産資源がありましたが交通が不便で輸送費が高く付くため開発はあまり進みませんでした。

⑤北方領土の人口
北方領土を始めとする千島列島のおもな産業は漁業でしたから住民の大部分は、漁業と、これにつながりのある仕事をして生活していました。終戦時、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島に住んでいた人は3,123世帯・17,291人でした。そのうち漁業が一番多く、公務員・商業・鉱工業・運送業などが人々のおもな職業でした。漁期には、根室や函館・本州方面から5,000人以上の出稼ぎの人々が来たので、著しく人口が増加しました。また、北の占守島や幌筵島(ぱらむしる)でも、漁期には1万人をこえる出稼ぎの人々がやって来ましたが、これらの人々は漁期が終わると、工場の番人などがわずか数10人位残って越冬するだけで、あとは引き揚げてしまいました。
↑ページのトップへ

北方領土の歴史

①松前藩の探検
北海道や千島が人に知られるようになった頃の同地方には、アイヌと呼ばれる人々が住んでいました。
国後島や択捉島には根室地方に住んでいたアイヌと同じ人たちが、また、占守島などの北の島にはクリル人といわれる人たちが住んでおり、1615年から1621年頃、松前藩と千島との間に交易が行われていたことが明らかにされています。
1635年に松前藩の村上広儀(むらかみひろよし)が蝦夷地を探検し、さらに千島列島の北端にある占守島までの地図を作りました。
この頃、すでに松前藩では千島を「くるみせ」と呼び、藩の土地として扱っていました。 1644年江戸幕府は、諸藩に命じて『正保御国絵図』(しょうほおくにえず)を作りましたが、それには「クナシリ」、「エトロホ」、「ウルフ」などの島名がつけられています。これは、ロシアのシュパンベルグたちが、千島列島を調査して地図を作った、1739年からみるとはるか以前のことになります。
松前藩は、始め厚岸(あっけし)を中心にして、千島と交易し、キリタップやがては根室のノツカマップ・国後島にも交易の場所を開きました。

②ロシアの南下
ロシアは、16世紀から18世紀にかけて、国の勢いを伸ばそうと図り、1582年、ウラル山脈をこえてシベリアに進出し、始めは南方をめざしましたが、清国(しんこく)に妨げられたため、目を東に転じました。
当時シベリアは毛皮の産地でしたので、これを求めて盛んに東へ進出するようになったのです。
1697年カムチャッカにまで延びたロシアの勢力は、千島にも及び、1711年アンジオロフらが兵を率いて占守(しゅむしゅ)島に上陸し、島の住民と戦ってこれを征服し、翌年には、幌筵(ぱらむしる)島も征服しました。
また、温祢古丹島(おんねこたんとう)も探検し、千島の南方が、日本に接していることを知ったということです。
1725年、ベーリング探検隊のシュパンベルクが、千島列島沿いに探検をしましたが、その結果、これらの地方が海獣の豊庫であることが明らかとなり、ロシアの進出が活発になりました。
千島の北半分に勢力が及び出すころ、アイヌ人たちとの間に争いや反乱が繰り返されましたが、ロシアの勢力が得撫(うるっぷ)島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。
1792年、ロシア人ラクスマンがエカテリーナⅡ世号に乗りロシア皇帝の国書(こくしょ)を持って、日本の漂流民を伴い、北海道根室に来て、わが国と通商を求めました。
これに対して、幕府の老中松平定信は、鎖国という国法を変えることはできないとして、松前藩を通して次のように回答しました。
○ロシアの国書は受けとれない。
○江戸への来航は許可できない。
○漂流民の送還については感謝する。
○通商の申しこみは長崎で行う。
このようにして、ラクスマンの目的は達成できませんでしたが、日本のようすや、幕府の外国に対する方針などがわかって、これらは、いずれも本国へ伝えられました。

②千島の開拓
ラクスマンの来航以来、北方地域の問題は、国内に大きな関心を呼び起こし、1758年以後ロシアの南下が強められるとともに、幕府もようやく警備の重要性を認め、島々の調査を命ずるようになりました。
最上徳内(もがみとくない)や近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)らの勇敢な日本人が活躍し、国後島を始め、択捉島や得撫島に渡って、実地調査をしました。
1798年、択捉島のタンネモイの丘に、「大日本恵登呂府」(だいにっぽんえとろふ)と書いた標柱を建てたのは近藤重蔵らで、調査の役目を充分果たしました。
また、1799年に幕府は東蝦夷地(ひがしえぞち)を直接治めることとしましたので、幕府の命により近藤重蔵らは本土の行政の仕組みを取り入れた郷村制をしいたり、漁場を開いたり、島々への航路を開きました。
高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)が自分の持ち船「辰悦丸」(しんえつまる)に乗り、国後島と択捉島の間の航路を開き、択捉島に17ヵ所の漁場を開いたのも、この頃です。幕府も港を作ったり、国後島に道路をつけるなど、開拓に力を入れました。

③千島の開拓
ラクスマンの来航以来、北方地域の問題は、国内に大きな関心を呼びおこし、1758年以後ロシアの南下が強められるとともに、幕府もようやく警備の重要性を認め、島々の調査を命ずるようになりました。
最上徳内(もがみとくない)や近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)らの勇敢な日本人が活躍し、国後島を始め、択捉島や得撫島に渡って、実地調査をしました。
1798年、択捉島のタンネモイの丘に、「大日本恵登呂府」(だいにっぽんえとろふ)と書いた標柱を建てたのは近藤重蔵らで、調査の役目を充分果たしました。
また、1799年に幕府は東蝦夷地を直接治めることとしましたので、幕府の命により近藤重蔵らは本土の行政のしくみを採り入れた郷村制をしいたり、漁場を開いたり、島々への航路を開きました。
高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)が自分の持ち船「辰悦丸」(しんえつまる)に乗り、国後島と択捉島の間の航路を開き、択捉島に17ヵ所の漁場を開いたのも、この頃です。幕府も港を作ったり、国後島に道路をつけるなど、開拓に力を入れました。

④日露通好条約
ロシアの南下政策が強められる一方、幕府の警備が進められるに及んで、両国の間にはこの地方を巡って争いや事件が起きるようになりました。
1811年、ロシアのゴローニン少佐が国後島に不法侵入したとして役人に捕らえられ、この事件の仕返しとして、1812年、高田屋嘉兵衛がロシア側に捕らえられるという事件が起きました。
この事件をきっかけとして、両国は1813年、国境を決めるための話し合いを始めました。話し合いは難航しましたが、1855年2月7日にようやく纏まって、下田で「日露通好条約」が結ばれました。
この条約によって、両国の国境は、択捉島と得撫島との中間とし、択捉島から南の島々は、日本の領土、得撫島から北の島々は、ロシアの領土と決めました。
しかしこの時、樺太(からふと)については両国とも互いに主張を譲らず、今までどおり、両国の雑居地として国境を決めないでおく、ということになりました。

⑤樺太・千島交換条約
1867年、江戸幕府が滅び、新しく誕生した明治政府は、国内の政策に重点をおきながらも、北海道に開拓使を置き、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島に郡制をしいて、行政を行うことにしましたが、樺太までは力が及びませんでした。
この頃ロシアは武力をもって、樺太南部にまで進出し、この地方の日本人との間に争いや混乱が絶えませんでした。
そこで政府は、1875年ロシア政府との間に「樺太・千島交換条約」を結びました。
この条約は、樺太全島をロシアに渡し、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島以北占守島までの18島)を日本の領土とすることに決めたもので、こうして、千島列島(クリル諸島)及び北方領土の全部が日本の領土になることが平和的に確定しましたが、日本人が長い間にわたり開拓した樺太を犠牲にして、なされたものです。
その後、内政が充実するとともに、北の地域の開拓や警備も、次第に進められていきました。1876年、初代の北海道開拓使長官・黒田清隆は、初めて全島を視察して、島々の開拓と警備の重要性を政府に伝え、1880年には、色丹島・国後島・択捉島に村役場が置かれ、行政組織もはっきりしました。
郵便局や小学校が建てられ、道路、港も整備されて、島民も次第に増え始めるとともに、生活もしやすくなりました。
しかし、得撫島から北の島については村を置かず、開発は遅れました。
このことを心配した郡司成忠(ぐんじしげただ)という人は、外国から千島列島を守り、開発を進めようと千島報効義会(ちしまほうこうぎかい)を興こし、占守島・捨子古丹島及び幌筵島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みましたが、捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員病死するという結果になり、北千島の自然の厳しさと、開拓の困難さがわかりました。
この計画は、1904年に日露戦争がはじまり、多くの隊員が引き揚げてしまったために、失敗に終わりましたが、別所佐吉ほか14人の人々は、占守島に踏み留まり、開拓に大きな成果を残しました。

⑥ソ連の不当占領
1941年(昭和16年)、日本はアメリカとイギリスを相手に戦争を始めましたが、次第に日本の敗戦が濃くなり、ついに1945年(昭和20年)8月15日『ポツダム宣言』を受け入れて、終戦となりましたが、終戦の日(8月15日)から3日後の8月18日になって、その当時、ソ連との間に有効期間中であった『日ソ中立条約』を一方的に破り、ソ連軍は砲撃とともに、クリル列島北端の占守島に上陸を始めました。
自衛のため応戦した日本軍との間に、大変な激戦が交わされましたが、日本軍は、北部方面軍司令官の命令により、8月23日に局地停戦協定を結び、武器をソ連軍に引き渡し降服しました。
その後、ソ連軍は、列島沿いに得撫島まで日本軍の武装解除をしながら南下しましたが、択捉島には上陸せず、一旦北に引き返しました。しかし、アメリカ軍が択捉島や国後島などに進駐していないことを知って、再び占領を開始しました。
このことは、当初、ソ連軍も北方四島は日本領土であることとして区別していたことを物語っています。
さらに、択捉島や国後島など、北方領土を占領した時、そこに住んでいた人々に「アメリカは来ているか」と念を押しながら上陸したとのことです。
8月28日には択捉島、9月1日には国後島、色丹島に上陸、9月5日には歯舞群島にまで及び、尽くを占領してしまいました。
このため、島で生活をしていた人々の中には、北海道本島との連絡も途絶えてしまい、不安にかられて、危険を犯して脱出した人もいました。不安を感じながらも、住みなれた故郷を捨てきれず島に留まった人々も、1947年(昭和22年)強制的に日本本土に引き揚げさせられました。
引き揚げた人々は、親戚、知人を頼ってそれぞれの地へ移っていきましたが、大部分の人々は、島と関係が深かった根室地方に、落ち着きました。
↑ページのトップへ

日ロ間の漁業問題

① 北方海域における漁業
北方領土周辺の海域は、千島海流(親潮)と日本海流(黒潮)が接しているため、魚の種類が極めて多く、古くから世界3大漁場の一つに数えられていました。
北方領土は、漁業を中心に開拓されたといってもよく、サケ、マス、タラ、タラバガニ、花咲ガニ、クジラ、ナマコ、エビ、ホッキ貝、コンブ、のり、ふのり、ギンナン草などの漁獲があり、かつては、これらの漁獲物が缶詰、塩蔵、乾物に加工されて、根室や函館に集められ、国内での消費を始め、海外にも多く輸出されました。
なかでも、コンブは直接根室から中国などへ盛んに輸出されましたし、タラバガニの缶詰は当時輸出の花形でした。
北方海域の昭和14年の漁獲高は、215,865トンに達し、金額で今の価格に直すと100億円を超えることがわかります。
この海域の資源がいかに豊かであったかということがわかります。

②北方海域におけるだ捕問題
終戦後、北方領土がソ連の占領するところになって、昭和21年から、この周辺海域で操業するわが国の漁船が、ソ連にだ捕されるという事件が発生し始めました。
昭和21年4月30日、根室市の渡辺雄吉さん所有の第2暁丸(あかつきまる)(16トン)が、歯舞群島の多楽島付近でソ連にだ捕されたのが最初で、その後現在まで、この事件は絶えることがありません。
ロシアは領海12カイリを主張していますが、北方領土を我がものとして、これらの島々から12カイリを自分の領海と決め、日本の漁船が近づくと、領海侵犯と密漁の疑いでだ捕するのです。
平成9年8月現在までだ捕された漁船の数は1,306隻、だ捕された人は延べ9,274人を数えています。
日本漁船をだ捕するのは、ロシア国境警備隊の警備艇で、だ捕されると漁船員は全員越境および密漁のうたがいで調べられ、船長や漁労長は短くて3ヶ月、長い時は4年位の刑罰を受け、抑留されます。
他の漁船員は1ヶ月から3ヶ月の抑留生活で帰されますが、船体、漁具、漁獲物の一さいをとり上げられるケースが多いのです。
だ捕事件にあった漁船員の家族は、働き手を失い、苦しい生活をしなければなりません。また、船主は船、漁具をとり上げられてしまう場合、新たに作る時に大変な費用がかかり、非常に困ったことになります。
国や北海道では、いろいろな法律や条例を作って援助しています。根室市においても、だ捕された人や、その家族に対して援助をしていますが、この問題は、経済的にも大きな問題となっています。

③日ロ漁業交渉
領海問題をこのままにしておくことは、だ捕の心配とともに、漁民の生活や、産業の発展も難しい問題になります。
そこで、国、北海道、根室市の水産関係団体の人たちが、いろいろとその対策を話しあって、努力をしていますが、なかなか解決の道が開かれません。
北方領土が日本に返されると、いっぺんに解決できるのですが、頑なに島々を返そうとはしません。
そこで、漁民の生活を守るために、ソ連と漁業問題について交渉を重ねるなどの努力をした結果、「日ソ間昆布採取協定」(ソ連と北海道水産会が結んだ協定)や、この海域が、日本の領土である北方領土の海域であることを主張し、領土問題が解決するまでの約束で「日ソ漁業暫定協定」(現在は「日ソ地先沖合漁業協定」)が結ばれました。
このことにより、だ捕の危険性は少し薄らいだことになりますが、ロシアの主張する領海に近いところほど魚がよくとれるので、この付近で漁をする漁船が多く、しかも、風や波が荒かったり、濃い海霧(ガス)のために針路を間違えることも多く、やはりだ捕事件は絶えません。
さらに、この協定の内容は、魚を取る場所の指定、魚の種類や量の制限、出漁するためのきびしい手続きなどがあり、思うように魚を取ることができません。
昭和52年7月、わが国も領海を3カイリから12カイリとし、漁業専管水域も200カイリと決めましたが、ロシアの200カイリの線引きとは大幅に食い違っていますので、だ捕されずに安心して操業ができるよう、早期の問題解決が望まれます。
↑ページのトップへ

北方領土返還運動のあゆみ

① 返還運動のあけぼの
日本固有の領土である歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島は、私たちの祖先が代々引き継いできた土地であり、再び私たちの手に戻そうとの目的のもとに、根室の地から返還要求の声が叫ばれたのは、終戦の年(昭和20年)の秋頃からでした。
当時の根室は、市ではなく町でしたが、ちょうど終戦の1ヵ月前、7月15日に、アメリカ軍の鑑載機による攻撃を受け、市街地の8割を焼失し、ひ災者約11,000人を出すという被害を受けました。
戦災救助活動に全住民が参加し、一生懸命になっていた頃、ソ連は千島列島及び、北方領土を占領し始めたのです。
当時、北方領土島々には、約17,000人の人々が住んでいたのですが、不安と恐怖のあまり次々に島を脱出し、一番関係の深かった根室へ安住の地を求めました。
根室町の町長・安藤石典(あんどういしすけ)は、早速、島からの引揚者の援護にも全力をあげるとともに、この年12月1日には、連合国軍最高司令官・マッカーサ元帥宛に北方領土についての陳情書を提出しました。
これが、領土返還要求運動の始まりとされています。
この陳情書の内容は、およそ次のようなものでした。

(イ)歯舞群島は根室の一部であり、歯舞村の区域です。色丹・国後・択捉の島々は、日本の国土で、住民は三代から五代も続いて住んでおり、明治8年の「樺太・千島交換条約」によっても、これらの島々が、日本固有の領土であることは明らかです。
(ロ)ソ連軍の武力占領により、家の中を掻き回されたり、お金や大切な物を取られたりしました。また、銃殺された人もあって、島の人びとは恐ろしくなって根室へ逃げてきた人もいます。択捉島は遠いので島の様子はまったくわからず、大変心配しています。
(ハ)島の産業・経済・人情・風俗などは、北海道とまったく同じで、親子の関係で、これらの島々は、北海道に付属する島々です。
(ニ)北海道と同じこれらの島々を、アメリカ軍の保障占領下に置いて頂き、島の住民の不安と恐怖を取り除き、安心して生業に就けるようにして下さい。この陳情運動がきっかけとなって、昭和21年には、引き揚げてきた島の人たちと、根室の人たちとが中心に「北海道附属島嶼復帰懇請委員会」(ほっかいどうふぞくとうしょふっきこんせいいいんかい)が作られ、領土返還運動が始まりました。

②国民大会の開催
一方、当時ソ連は、1946年(昭和21年)樺太(サハリン)の南部と、千島列島(クリル諸島)および択捉・国後・色丹・歯舞群島を、ソ連の領土とすることを決め、翌年、これをソ連の中へ含めてしまいました。
このような中で、懇請委員会は強力に返還運動を推し進めました。それは、千島の返還要求がポツダム宣言に違反するものではないし、私たちの先祖が他国からとりあげたものではないこと、とくに北方領土は昔から日本固有の領土で、他国の支配を受けたことがないことから、北方四島の返還は当然のことで、単に島の人たちや根室の人々だけではなく、日本全国民の願いとして、全世界に訴えて、祖国復帰の実現をはかろうとの固い決意によって、推し進められました。
この懇請委員会が中心となり、昭和22年8月10日根室町において「根室国民大会」が開催されましたが、これが住民大会としては、最初の大会でした。
北方領土の返還を要求する考えかたは、日本政府も根室市も全く同じです。
現在では、全国各地で返還運動に対する関心がもりあがり、多くの都道府県や市町村では、議会の決議なども、何度となく行なわれ、また全国47都道府県のすべてに、北方領土の返還を要求する都道府県民会議が結成されて、署名運動や、北方領土を目で見る視察団を根室に派けんするなどの事業を活発に行うなどの活動が展開されています。

③キャラバン隊の活動
北方領土の返還を要求し、この問題を地域住民を始め日本全国民に呼びかけする活動は、昭和42年からはじまりました。
当時、返還運動の先頭に立って活躍していた根室市の若い人達の中で、返還運動を大きく広げようと、その対策が色々考え出されましたが、地域住民に直接訴えることが必要である、との考えから、根室青年会議所の人たちと、根室市役所の若い職員が協力しあい、同年11月、9泊10日のキャラバン隊による、北方領土キャンペーンが行われました。第1回、第2回は、道内のみのキャラバン活動でしたが、第3回目は、道外へもその活動が展開されるようになりました。隊員の方々のマイカーを連ねて、苦労の多い活動であったそうです。
そして、この活動は、昭和45年からは北海道が主催するようになり、広く北海道各地の青年たちから隊員を募り、毎年の大きな事業として行なわれるようになりました。
根室市からも必ず、このキャラバン隊に参加をしていますが、この他に、根室市では、道内のすみずみまで、宣伝活動に努めようと、返還運動に結集する若者達によって、毎年、道内キャラバン隊が編成され、活動が行なわれています。
11年10月20日から11月18日までの約1ヶ月にわたり、北方領土問題対策協会と,各都道府県に結成されている北方領土返還要求運動都道府県民会議とが実施主体となり、総務庁、外務後援の下、全国全ての都道府県を巡回する「北方領土返還要求全国横断特別キャラバン」が行われました。

④「北方領土の日」の設定
北方領土返還要求現地根室大会の開催
(平成7年8月6日)
北方領土は、いまだロシアの不当な占領下にありますが、わが国は平和国家として、話し合いの中で北方領土の返還を実現させようとロシアに訴えています。
しかし、このためには、わが国の国民の一致した世論のもとに訴えなければ、外交交渉も力強さがないものになってしまいます。
そこで、わが国政府は昭和56年1月6日の閣議で、毎年2月7日を「北方領土の日」とすることに決めました。
そしてこの日は、全国的に集会や講演会・研修会などの行事を行い、北方領土に対する理解を深め、そのうえで、一層の国民世論の盛りあがりを図り、返還運動を推進することとしたのです。
この2月7日という日は、1855年(安政元年)日本とロシアの間に、初めて、択捉島と得撫島の間を、国境としようと決めた日露通好条約が調印された、記念すべき日なのです。

⑤北方領土返還祈念シンボル像
「四島のかけ橋」・「祈りの火」・「オーロラタワー
根室市の納沙布岬(望郷の岬公園)には「四島のかけ橋」というシンボル像と「オーロラタワー」、が北方領土の歯舞群島を目の前にして、そびえ立っています。
この像は、世界の平和を願い、世界の正しい秩序を求める中で、北方領土のソ連占領を許すまいとする国民の強い願いと、祈りの心を結集し、北方領土が返還されるまでねばり強く、返還運動を続ける決意を象徴するために作られたものです。
この計画は、北方領土返還要求運動連絡協議会が考え、昭和53年12月に財団法人・北方領土返還祈念シンボル像建設協会が設立されました。
この協会が推進母体となって全国民に訴え、各地から募金が寄せられましたが、その額は4億円にも達しました。
像の形は一般公募の結果、春山文典さんのイメージデザイン。「四島のかけ橋」という名称は、大和雪生さんの案が選ばれ、昭和55年から建設工事が着手され、昭和56年9月27日竣工しました。
北方四島を4つのブロックに表現し、それが連なり合って大きなかけ橋となり、領土返還を祈る”ゲート”として表現されており、底辺の長さ35メートル、高さ13メートル、幅3~5メートル、重さ171トンの堂々とした像です。
この像の附帯施設として、全国民の思いを込めて、”祈りの火”の点火灯台があり、いつも赤々と火が灯されています。
この火は、昭和47年5月15日祖国復帰を実現した、沖縄の南端に位置する波照間(はてるま)島で自然採火したもので、青年団体のキャラバン隊により、運ばれたものです。「北方領土返還運動の火をたやすな」という合言葉のもとに、この火の原料であるプロパンガスの費用についても、全国各地から、いろいろな団体や、個人の熱意ある寄附金が寄せられ、灯し続けられています。
↑ページのトップへ

北方領土返還運動への参加

① 日本とロシアの考え方
歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の4つの島は、歴史のうえからみても、昔から日本以外のどこの国の領土にもなったことがありません。また、1855年(安政元年)の『日露通好条約』や、1875年(明治8年)の『樺太・千島交換条約』からみても、日本固有の領土であることが、はっきりしています。
日本はソ連と、何度も北方領土の問題で話し合ってきましたが、ソ連は『ヤルタ協定』や『サンフランシスコ平和条約』を引き合いに出して、「サンフランシスコ平和条約で南樺太および千島列島を放棄(ほうき)しており、ヤルタ協定により決定ずみである。戦争に敗けた日本には、領土権を主張する権利がない」などと主張して、北方領土を占領したまま、返えそうとしません。
日本は、1951年(昭和26年)『サンフランシスコ平和条約』に調印し、それによって「千島列島」を放棄しましたが、前にも学んだとおり、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の4島は、放棄した千島列島の中には含まれていないのです。この条約で放棄した千島列島(クリルアイランズ)は、『樺太・千島交換条約』であきらかなように、得撫島以北占守島までの島々です。しかも「サンフランシスコ平和条約」には、ソ連は調印していません。そして、この放棄した領土は、まだどこの国の領土とするか、連合国の間で決定されていないのです。
しかし、ソ連は、「この条約でいう千島列島は歯舞群島から占守島までの島々である」として、1947年(昭和22年)1月、千島列島や北方領土を、一方的にソ連に編入してしまいました。
1956年(昭和31年)に日本とソ連の間で、平和条約を結び国交を再開するため、モスクワで話し合いがされましたが、北方領土に対する考え方が違って、平和条約を結ぶことができませんでした。それで、平和条約にかわって『共同宣言』を調印して国交が再開されました。
従って、北方領土問題は、これからも、日本とロシアとの間でねばり強く話し合いをして、解決しなければなりません。

②島に住んでいた人たち
北方墓参団
北方領土には、17,291名の人々が生活をしていました。
ソ連軍に占領されてからも、ソ連兵の監視のなかで、自分達の土地を守って生活をつづけていたのですが、1947年(昭和22年)に、一方的にソ連領に編入されてから「ソ連人でなければ住ませない」と、島の人たちは、皆身のまわり品だけ持って、日本の本土に送り返されました。
島の人たちは、とりあえず親戚や、知人をたずねたり、役所の世話を受けたりして、それぞれの地に移りましたが、大部分の人は「島に帰れる日がきたら、1日も早く帰りたい」と、島の見える、根室地方に落ち着きました。
島には、父や母、肉親のお墓がそのまま残されており、毎年、お墓まいりをしたいという強い願いを、国や道、そして在日ソ連大使館を通じて、ソ連政府に働きかけてきました。その願いが叶って1964年(昭和39年)やっと第1回目の墓参ができるようになりました。第1回目は、歯舞群島の水晶島(1ヵ所)、色丹島(2ヵ所)でした。
その後、1968年(昭和43年)を除いて、毎年実現されてきましたが、1971年(昭和46年)から3年間はソ連との話し合いがつかず、中断されました。しかし、1974年(昭和49年)、1975年(昭和50年)には、再び墓参が行なわれるようになりました。
ところが、1976年(昭和51年)になってソ連は、いままでの日本の外務大臣の発行する身分証明書に代え、旅券(パスポート)、渡航先の査証(ビザ)を持つことを要求してきました。日本政府は、北方領土はあくまでも日本の領土であるので、旅券を発行すると、外国の領土ということになるので認めることができないとし、中止せざるをえなくなりました。
この問題は、島に住んでいた人たちが、肉親のお墓参りをしたいという、人道的な願いなのです。今までどおりの方法で、1日も早く墓参ができるように、島の人たちは、政府に対して強く要望を続けてきたところ、1986年(昭和61年)11年ぶりに今までどおりの方法で実現され2000年(平成12年)23回目の墓参が行われ、これまでに2,060人の遺族が参加しました。
元島民の人たちは、1日も早く故郷の島へ帰れる日を待ちながら、毎日島影を見て働いてきました。しかし、終戦から現在まで、長い年月がたち、多くのお年寄りは「島へ帰りたい」と言い残しながら亡くなり、年々、島での生活や様子を知っている人が少なくなってきました。

③これからの運動
鈴木総理大臣初の北方視察で根室を訪れ、納沙布岬に立つ。(昭和56年9月10日)
戦後から現在まで、1日として休むことなく、北方領土の返還要求運動は続けられてきました。
領土を返還してもらうということは、国と国との間の難しい問題です。ロシアとの交渉において、最も大きな力となるのは、北方の島々を故郷(ふるさと)とする人達や関係のある人達の、普段からの運動の積み重ねと、国民の一致した世論です。国民の一人ひとりがこの問題について正しく理解し、日本の立場を、粘り強く主張していくことが、非常に大切なことです。
政府を始め、北海道や根室市が中心となり、いろいろな事業を行っていますが、全国の都道府県や市町村でも、返還運動を広めるため、署名運動や北方領土視察団を納沙布岬に派けんしたり、事業を活発に行い、1人でも多くの人びとに、北方領土について関心をもってもらおうと、熱心な活動が続けられています。さらに、国においても衆議院、参議院で、北方領土が1日も早く返還するよう努めることを決議していますし、全国の都道府県・市町村の議会のほとんどが、北方領土返還要求の決議をしています。
国民世論を盛んにするために、北方領土にいちばん近い根室市に「北方資料館」、「千島会館」のほか、納沙布岬には「北方館」、「望郷の家」「オーロラタワー」-が建てられ、北方領土のいろいろな資料が展示されており、また、北方領土を見る施設があります。
特に「オーロラタワー」からは、国後島や歯舞群島をすぐ近くに見ることができ、眼の前にロシア国境警備隊の警備艇がいます。天気のよい日には、水晶島で、歩いているロシア兵の姿も見ることができます。
政府は「北方領土を目で見る運動」を進めており、そのための施設として「北方館」や「別海北方展望塔」が建設されています。そこから島々を見れば、こんなに近く見え、昔から日本人が、私たちの祖先が苦労を重ね開拓した島であることが、よくわかります。平成3年4月にソ連最高首脳としては初めてゴルバチョフ大統領が来日して、日本の海部総理大臣と北方領土問題などについて色々と話し合いをしました。その時の共同声明の中で歯舞群島・色丹島・国後島及び択捉島の北方四島の名前が明記され、北方領土問題を含む平和条約締結の作業を加速することが確認されました。また、このとき、提案のあった日本国民と北方四島の住民との交流が、旅券、査証を必要としない身分証明書方式で実施されることになり、平成4年4月から平成12年11月末までに日本側から4,038人(報道関係者を含む)、ロシア側から3,588人の人たちがそれぞれお互いに訪問し、交流の中からロシアの人たちに対し、北方領土の歴史、日本の主張を訴えました。
また平成5年10月に来日した、エリツィン・ロシア大統領は、ロシアは旧ソ連が交わした条約はすべて引き継ぐとし、歯舞・色丹の二島返還を明記した日ソ共同宣言の有効性を確認しました。
さらに、平成9年11月クラスノヤルスクにおいて日ロ首脳会談が開催され、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するようお互いに全力を尽くす」ことで合意し、翌年4月の川奈での日ロ首脳会談では「クラスノヤルスク合意」の実現に向け加速化を図ることで一致しました。
平成10年11月には小渕総埋かロシアを公式訪問し、エリツィン大統領との会談において、国境画定委員会等の設置や、元島民による自由訪問などを明記した「モスクワ宣言」が署名されました。
そして、平成11年9月に元島民とその家族による最初の自由訪問(志発島)が実現しました。
その後、2000年9月にはプーチン大統領が初めて日本を訪問し、森総理と会談をしましたが、プーチン大統領自らが1956年の日ソ共同宣言の有効性について確認したものの、残念ながらクラスノヤルスク合意達成はなりませんでした。
21世紀を迎え、2003年1月に行なわれた、小泉総理とプーチン大統領の首脳会談において、日ロ平和条約の締結を始めとする日ロ関係の6項目にわたる「日露行動計画」が署名され、その中で北方領土問題は重要な柱として位置付けられており、領土問題の解決に新たな道筋が聞かれました。
また、2005年11月にはプーチン大統領が5年ぶりに日本を訪問し、小泉総理と会談しました。残念ながら北方領土問題については具体的な前進はありませんでしたが、これまでの様々な合意及び文書に基づき、日ロ両国が共に受け入れられる解決を見出す努力を行なうことで一致いたしました。
今後日本とロシアの人々が、お互いに交流を進めていく中で日本側はあらゆる機会をとらえて、歴史的にも国際法に照らしても北方領土は、日本の領土であることを、ロシアの人たちに理解してもらえるように努力していくことが大切です。
北方領土の返還は、世界平和のためにも、日本とロシアが隣どうしの国として仲よくしていくためにも、どうしても解決しなければなりません。難しい問題ですが、これからも何年かかろうとも、この運動を若い人たちが引き継いで、粘り強く正しい主張を訴えていくことが大切です。
(平成23年3月根室市発行「青少年のための日本の領土・北方領土」より転載)

powered by Quick Homepage Maker 4.81
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional